iPad を一番安く買える国は
というような記事をほうぼうで見つけて,なんか Big Mac index の話に似ているなあ,と思って調べてみたら,同じような動機による調査だった.でもなんか変だったのでいろいろ調べていくうちに,かなり深入りしてしまった.せっかく調べてしまったので備忘録を兼ねて.
結論としては,購買力による比較では,日本はスイスと米国の次に「安く」iPad を手に入れることができます.ただ,これはアップルジャパンによる流通コスト削減…などの結果であろうはずがなく,日本の消費税が他の国の付加価値税 (VAT) より税率が低いことによるものです.VAT を差し引くと,別に価格自体は割安でもなんでもありません.だまされたりしないように気をつけましょう.なお,iPad の生産・流通には販売国内で付加価値をつける余地がほとんどないので,(Big Mac index のように) 購買力を比較するための指標には iPad index というのはまったく使えないと思います.
Big Mac index
まずは Big Mac index (ビッグマック指数) のお話から.英国の経済誌である The Economist 誌が実施している価格調査で,世界中の国で売られている Big Mac の「価値」を 10 年以上にわたって継続的に調べている.
なんでマジメな経済誌が,マクドナルドに頼まれるでもなくそんな一見すると意味があるのかないのか微妙そうな調査をしているかというと,「どの国の人が一番経済的に豊かか?」という疑問に答えるためとされている.
経済的にどのくらい豊かか,というのは,賃金の大小だけでは計れない.日本は賃金が高いと言われるけど,賃金が高いからといってその分他の国よりモノが沢山買えるかというと,必ずしもそういうわけにはいかない.モノの値段にもよるので.極端な話,時給が他の国の 100 倍高くても,物価も他の国の 100 倍高ければ,買えるモノは変わらない.というわけで,単に賃金の大小を比べるのではなく,物価の影響も考えて「1 時間働いて,どのくらいモノが買えるか」というのを経済力の指標にしよう,という話がある.これは購買力と呼ばれる.
なので,世界の国々の購買力を比較するためには,世界中の国々でそれぞれ賃金とモノの値段とを調べて比較しましょう,ということになるんだけど,賃金はまあ良いとして,「モノの値段」って,何の値段? いろいろな製品やサービスの値段の平均? 単なる平均じゃまずいだろうけど,どうやって重みづけするの? そもそも国ごとに生活様式や文化が違うんだから,売っているものはばらばらじゃない? たとえば日本や他の東アジアの国々では「お米の値段」は重要だろうけど,欧米ではそもそもあまり関係ないよね? ということで,世界中の国々で比較可能な「モノの値段」というのを定義することはけっこう面倒くさい.
そこで出てくるのが,ビッグマック.ビッグマックは世界中でほとんど同一品質のものが販売される (日本のやつは小さいんじゃないかと言われるけど,少なくともビッグマックに限ってはそんなこともなく.1 個あたり,日本で 224g (555kcal),米国で 214g (540kcal) とされている) し,ビッグマックを作るための原材料費や運送費,ビッグマックを売る店舗の光熱費や店員の給料など,いろいろな要因から値段が決まる.ということで,「総合的な購買力の比較」に使いやすいんじゃないか,と.
で,実際のビッグマックの値段は,米国で $3.58,日本で 320 円 (地方だともっと安い?) らしい.Google によると今日の為替レートで 3.58 USD ≒ 327 JPY とのことなので,あれ? 日本は米国に比べて物価は高くない?
日本の購買力
実は (少し前までの) 日本マクドナルドの低価格戦略のおかげで,ファーストフードについてはそんなに割高ではなくなっている (以前ほど割安でもないけど).バブル崩壊からちょっと経った 1995 年のビッグマックの値段は 391 円 (3%税込) だった.10 年後の 2005 年には 250 円にまでなったあと,最近は軌道修正を図って 2010 年には上記の通り.15 年で約 70 円,2 割弱ほど値段が安くなっている.
米国ではどうだったかというと,1995 年は $2.32 (≒218円),2005 年は $3.06 (≒339円) だった (出典).15 年でこちらは $1.26 の値上がり.実に 50% 以上も高くなっている.
比べてみると,1995 年には日本のビッグマックは米国のビッグマックより 1.8 倍高かったのが,15 年経った今では日本の値下げと米国の値上げによりほぼトントンになっている.つまり,ビッグマックの値段で見ると日本のモノの値段は米国のモノの値段に比べてそんなに高くない.
それでは賃金のほうは,と思って UBS 銀行の Prices and Earnings というレポート (2009 年版) を参照してみた.9 ページに,"Wage levels" という章があって,主要都市の賃金比較の表が載っている.gross というのが額面賃金,net というのが可処分所得 (所得税とか社会保障費を除いた実質賃金) の,それぞれニューヨークを 100 とした指数になっている.gross が高い順に,コペンハーゲン,チューリッヒ,ジュネーブ,ニューヨーク,と続いて…東京は? あった.
東京の賃金水準は,対ニューヨーク比で,額面で 74 %,可処分所得で 83% しかない.orz
この表は 1USD = 100JPY = 0.765EUR で計算してあるみたいだから,現在の為替レートで計算するともう数パーセントは良くなるんだけど,少なくも対米国比で,必ずしも「日本は賃金が高い」とは言えない.
このデータを使った Big Mac index も上記のレポートに載っている (11 ページ) けど,使っているビッグマックの値段がわからない (少しデータがあやしい) ので,自分で計算してみる.27 ページに掲載されている1時間あたり賃金の表を見ると,可処分所得 (net) として得られるのはニューヨークで $19.0/時間,東京で $15.7/時間.このレポートは 1USD=100JPY で換算されているので,東京は 1 時間で 1,570 円の可処分所得が得られることになる.すると,
ということになる.ビッグマック自体の値段はちょびっと米国のほうが日本より割高なんだけど,購買力で見ると,賃金が良い米国のほうが日本より「割安に」ビッグマックを手に入れることができる.
iPad を一番安く買える国は
というあたりを念頭に入れながら,豪州コモンウェルス銀行 (CommSec) が作った iPad の国際価格比較 を眺めてみる.Wi-fi 16GB モデルで,米国 $499,日本 $536,ユーロ諸国 (ドイツ,フランス,イタリアなど) $612,英国 $620,スイス $560,オーストラリア $533,カナダ $520.これだけでは Big Mac index のような購買力指数にならないので,賃金のほうもデータを持ってくる.ニューヨークと東京の時間あたり賃金 (可処分所得) は前述の通り.同じページから,フランクフルトは $14.5,パリ $13.3,ミラノ $11.5,ロンドン $13.9,チューリッヒ $22.6,シドニー $14.0,トロント $12.8.ちなみに本当は為替レートをきちんと合わせないといけないが,面倒くさいのでそのまま使ってしまうことにする.
すると,iPad index,すなわち何時間働くと iPad が一台買えるかという指標が出てくる.
都市名 | iPad の価格 | 時間あたり賃金 (net) | iPad index - 何時間働けば iPad を買えるか |
---|---|---|---|
チューリッヒ | $560 | $22.6 | 24.8時間 |
ニューヨーク | $499 | $19.0 | 26.3時間 |
東京 | $536 | $15.7 | 34.1時間 |
シドニー | $533 | $14.0 | 38.1時間 |
トロント | $520 | $12.8 | 40.6時間 |
フランクフルト | $612 | $14.5 | 42.2時間 |
ロンドン | $620 | $13.9 | 44.6時間 |
パリ | $612 | $13.3 | 46.0時間 |
ミラノ | $612 | $11.5 | 53.2時間 |
比べてみると,単に価格比較では日本は米国,カナダ,オーストラリアに次いで 4 番目の値段だったが,購買力で考えると,スイスと米国の次に「安く」iPad を手に入れることができることになる.
これは,冒頭に述べたようにアップルの企業努力…はおそらく価格をいかに高止まり安定させるかのほうに費されているので関係なくて,円高なので円建ての名目賃金が対 USD,対 EUR のどちらに対しても大きく見えてしまうことと,日本の所得税や消費税がこれらの国に対して安いことによる.
税金が安いというのは,国民みんなで借金をかかえるか,他の国では受けられるような行政サービスが受けられなくなっていることを意味する (まともな国であれば).ということで,税金が安いために見かけの購買力が大きくなるのが幸せ…かというとそんなこともないので,税込みだけの比較ではそのあたりちょっとアンフェアな比較になる.また,もうちょっとぶっちゃけ言ってしまうと,ビッグマックの価格はまだしも国内の様々なモノやサービスの上に成り立っているが,iPad なんて国内でやることと言えば広告出して注文取って金取って配るだけなので,国内での付加価値がほとんどない.すなわち,購買力云々なんてことを議論するのはあまり意味がない.国内法人のマージンと輸送費が同じなら,税抜き価格はどの国でも同じになるはずだから.
iPad を一番安く「売ってる」国は
では,税抜ベースで見てみるとどうなるだろう.
日本の消費税は 5% だから計算しやすいけど,他の国の iPad にかかっている VAT なんて調べたくもないなぁ.まあいいや,ざっくり計算してみよう.ドイツやフランス,イタリアなどのユーロ圏の VAT はだいたい 20% くらい,英国は 17.5%,豪州は 10%,スイス 7.6%,カナダは日本と同じ 5% らしい.で,税抜きで同じく Wi-fi 16GB モデルの価格を見てみる.米国 $499,日本 $510.5,ユーロ圏諸国 $510,英国 $527.7,スイス $520.4,オーストラリア $484.5,カナダ $495.2.
あれ? 日本は英国,スイスに次いで 3 番目に高いマージンを取っているんじゃないか?
次に,税別での iPad index.賃金も gross のほうで比較.
都市名 | iPad の価格 (税抜き) | 時間あたり賃金 (gross) | 何時間働けば iPad を買えるか (税別) |
---|---|---|---|
チューリッヒ | $520.4 | $30.3 | 17.2時間 |
ニューヨーク | $499 | $26.1 | 19.1時間 |
フランクフルト | $510 | $22.1 | 23.1時間 |
東京 | $510.5 | $19.4 | 26.3時間 |
シドニー | $484.5 | $18.3 | 26.5時間 |
パリ | $510 | $18.0 | 28.3時間 |
トロント | $495.2 | $17.1 | 29.0時間 |
ロンドン | $527.7 | $18.0 | 29.3時間 |
ミラノ | $510 | $16.6 | 30.7時間 |
まあだいたい真ん中くらい.ちなみに,こうして比べてみるとわかるように,(前述の UBS レポートが作られたときの為替レートで見ると) 額面ベースでは日本の賃金水準は他の先進国主要都市に比べてそれほど良いわけではない.たとえば,フランクフルトは東京より賃金水準が高い.すなわちその分税金が高いということで,さっきの表と比べてみると,フランクフルトの人は iPad を買うのに 42.2 時間働かなくてはいけなくて,しかもそのうちの半分弱,約19時間は「税金のため」の労働.うわー,これはこれで個人的にはさすがにちょっとやってられないかも.
iPad index はあまり意味がない
と,ついついいろいろと調べてしまったんだけど,Big Mac index と違って iPad index というのはあまり意味がない.ビッグマックを作って売るためには国内の様々なサービスや原料・労働力を使う必要があり,ある程度はそれらを反映した指標にならないこともない (ただし,完全に反映しているわけでもない) が,さっきも書いたように,iPad を国内で売る過程ではほとんど何も国内で付加価値をつけたりしてしないので.
ただ,税抜きでの各国の価格を横並びで比較してみるのは,現地法人の商売のやり方を見るのに興味深いかもしれないと思った.ただ,これも近年のように巨額の投機資金が右往左往する経済情勢では,実体経済の反映というよりは投機の思惑で為替レートが振れてしまうところも大きいので,実際にはこちらの影響もかなりあると思うけど.